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で、ひとりごと

四年たったらまた会いましょと、かたい約束、東京五輪

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2020年東京オリンピック開催。人生で2度、母国開催の夏季オリンピックに触れられるのは幸運としか云いようが無い。ただ1964年に開催された東京オリンピックの時、私はまだ3歳で記憶が無い。当時の映像を後で見て感慨にふける程度。だが昭和40年以降に生まれた人には、どこか「2度目のオリンピックを経験するんだぞ」と、了見の狭い話ではあるが自慢したくなる。それほど、オリンピックには感動があるのだ。

●1972年ミュンヘン。体操王国日本4連覇、男子バレーボールの逆転金メダル。
●1976年モントリオール。ナディア・コマネチ、史上初の10点満点を連発。
●1980年モスクワ。ボイコットにより不参加、悔しさの滲む柔道の山下選手。
●1984年ロサンゼルス。柔道男子無差別級で悲願の金メダルを掴んだ山下選手。
●1988年ソウル。日本競泳16年ぶりの金メダルを獲得した鈴木大地選手。
●1992年バルセロナ。柔ちゃんこと田村亮子選手の活躍
●1996年アトランタ。有森裕子選手、前回のバルセロナに続いてメダル獲得。
●2000年シドニー。女子陸上競技初の金メダルを獲得した高橋尚子選手。
●2004年アテネ。体操王国日本の復活、栄光の架け橋となる体操男子団体総合。
●2008年北京。平泳ぎで2大会連続2種目制覇の北島康介選手。
●2012年ロンドン。霊長類最強女子と云われた吉田沙保里選手の金メダル。
●2016年リオデジャネイロ。体操王国日本再び、内村航平選手率いる体操男子団体。

書き綴るだけで、あの時の興奮が蘇る。そして2020年、東京へ。どんなドラマと感動があるのだろう。


そんな日本で開催される1度目のオリンピックには苦悩の道があった。
1940年、日中戦争の拡大に伴い開催予定だった第12回夏季オリンピックを返上。
1948年、敗戦国である日本は、第14回ロンドンオリンピックへの参加は認められなかった。再び、国際社会の表舞台に立つべく、悔しさをバネに急成長を続けた。そして迎えたのが1964年の東京オリンピックである。

そんな悲願のオリンピックであるが、庶民は「東京五輪音頭」の陽気さで迎える。なんともお祭り騒ぎな日本らしさがあって、嬉しくなる(笑)そして、リオデジャネイロの閉会式で見せたプレゼンテーションの映像には、ドラえもんやマリオなどの漫画やアニメが登場し、世界を沸かせた。
スタイリッシュな映像ではあるが、底辺にある小躍りするような日本人らしいがあってニヤニヤしてしまった。さぁさぁ手拍子宜しく、お祭り騒ぎでいこうよ、2020。

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スイート・キャロライン、恋ダンスを踊ろう!

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昭和36年、私が生まれたその年、遙か彼方の国で一人の男が大統領になった。第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy)。
「国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい。」
就任演説で発したその言葉は、余りにも有名で光り輝く。しかし、失敗や不満を外に求めたがる今の私にとっては実に耳が痛い。もらえる年金額にぶつぶつ愚痴って待つより、もっと働かねばと思う(汗)

太平洋戦争が終わり、街を闊歩する進駐軍に子供達が「ギブミーチョコレート」と駆け寄るシーンが、ドラマや終戦特集で放送されていた。群がる子供たちに惜しげも無くチョコレートを与えるアメリカ兵に、優しさや光を感じただろう。しかし今にして思えば当時の進駐軍は、日本の国家予算の1/3を軍駐留経費に使っている。配られるチョコレートも国家予算だったのだ。物をねだれば気前よくくれる裕福で羨望の国に思えたアメリカは、実は腹黒だったりするのだ。

欲しい欲しいとタダねだるだけでは、腹黒い者につけ込まれる。「ギブミーチョコレート」と叫んだ子供達が、高度成長を支えた大人となっていく。立国を目指す大人たちを見ながら私は育った。外人への接し方が変わる。モノをねだりたいわけじゃ無い。街で見かけた外人に、ただ「ハローハロー」と恥ずかしげに声を掛けるだけで良かった。その行動を友達に自慢し、はしゃぐだけで満足出来た。まだまだ後進国だった日本が、先進国の人に「こんにちは」と声をかけることが、嬉しくてたまらなかったのだ。


2013年11月19日。キャロライン・ケネディ、第29代駐日アメリカ合衆国大使着任。感慨深くも、亡き大統領の娘が日本にやって来た。
2016年暮れ、youtubeでアメリカ大使館が、流行歌「恋ダンス」に乗せてダンスの動画を公開した。

今、若い人たちは物怖じせず、海外へ飛び立っている。多くの日本人が、世界で活躍している。日本は先進国になったのだ。
世界の人々とダンスができる国になったのだ。

つらくても、レンゲと蓮(はちす)の花を咲かせたい。

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田植えが始まる春先、田んぼは一面、赤紫に染まっていた。岐阜の県花でもあるレンゲ草が視界いっぱいに広がり、まるで赤い絨毯に思えた。寝転がり、駆け回るのが春を迎えた小学生の帰り道だった。

甘さに飢えた私は良く、友達と一緒にチュウチュウ、レンゲの密を吸った。ただ砂糖とは違い、ほんのりとした甘さしかない、だが量だけは一面にある。そんなレンゲを踏み荒らしたところで、農家の人も怒ることはしない。いずれこのレンゲは時期がくれば肥料として耕されてしまうのだ。
泥の中で咲き、泥の中に消えていく「蓮華草」とは良くいったものだ。

子供の頃、初めて親に映画館に連れて行ってもらった。映画館に着くと壁一面には、金色に輝く三つ首の竜キングギドラが待ち構えていた。下から見上げるキングギドラに圧倒されながらも、ワクワク感は止まらない。売り場で入場券を買い、席に着く。館内が暗くなり「さぁ~始まるぞ」と固唾を飲んだその後、スクリーンに映し出されたのは富士山だった。波しぶきドバァァァ~でも、キラキラネオンの光りものの東宝では無い。松竹の富士山だ(汗)

昭和の時代に昭和の映画を観る。当たり前すぎて感動など有るはずが無い。何が悲しくて、小学生が「男はつらいよ」を観なければならなかったのか。当然男のつらさなど分かろうはずも無く、「小学生はつらいよ」とその時ばかりは親を恨んだものだ(笑)


だが、今の世となり「男はつらいよ」を観返す時、ことは一変する。あれから40数年、多くのつらさを味わった。その辛さの中に小さな幸せを感じた。ほの甘いレンゲの甘さに、身を震わせた子供の頃を思い出す。

ドブに落ちても 根のある奴は いつかは 蓮の花と咲く

今、見渡す景色にレンゲは無い。だけど思う。心の中にだけはレンゲの花を咲かせていたい、と。

ピンクレディーもAKB48も投票で舞台にあがる。

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激流のような時代の変化について行くのは難しい。新しいものにしか価値を見いだせず、過去のものは「古い」の一言で吐き捨てられていく。昭和という時代も、平成生まれから見れば棄てられていく運命なのだろうか?確かに、昭和生まれに大正時代の話をされてもピンと来ない(笑)ただ、今にして思えば、私が子供の頃、日本を動かしていたのは、明治や大正の大人たちであった。堅物な大人たちが時代を引っ張り、その堅物さに反発していた。

歳をとると不思議なもので、新しいものに対して構えて心を閉ざしてしまうようだ。あれほど新しいものに敏感だったばすなのに、人に教えられなければ触れもせず、「昔は良かった」と懐古すれば、今の若い人に嫌われるのは必定。時代の格差を感じずにはいられない。

中学生の息子に音楽業界でAKB48が流行っていると聞いた。何やら48人のグループで、舞台のセンターをファンの選挙で選ぶという。その数もさることながら選挙と言う手法は、新しさと云うべきなのだろうか?

1971年10月3日。日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組「スター誕生!!」放送開始。
スター誕生から多くのアイドルが生まれた。昔もそう、投票に支えられ、舞台のセンターに立つことが出来たのだ。



とにもかくにも息子に48人の名前を云われ、誰が誰やらさっぱり分からず(笑)分からないからと云ってその音楽を聴く努力をしないのであれば、息子との会話も成り立たない。しぶしぶ代表作をいくつか聴いてみた。
その中、これはいけると思えたのが「恋するフォーチュンクッキー」。他の曲はどうであれ、この曲だけは、時々聴きたくなりYoutubeに向かっている。すると後ろで何やら熱い視線。振り向くと、息子が微笑んでいたりする(笑)バツが悪いったらありゃしない(汗)

そんな息子にピンクレディーの「カメレオンアーミー」を教えた。最初は怪訝な顔をしていたが、聞き終わると一言、「これいいかも」と。

あれほど難しいと感じた世代の格差を、音楽というものは簡単に越えてくるのだ。

CLOSE YOUR EYES 瞳を閉じれば戦争の影が見える

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中学校の帰り道、ただ開けた田んぼのあぜ道を歩きながら、大声で軍歌を歌った。一番のお気に入りは「加藤隼戦闘隊」。「月月火水木金金」や「ラバウル海軍航空隊」なら今でもソラで歌える(笑)
戦後16年が過ぎて生まれた私は、当然戦争など経験したことは無い。だが、周りには確かに居た。辛い戦争を経験しながらも笑顔をくれる大人たちが。

農作業をするお爺ちゃんが居た。そのお爺ちゃんは帰り道の足取りを軽くさせんばかりに歌を歌っていた。それが軍歌だった。少ないこづかいで買った初めてのカセットテープが軍歌だった。それを聞いて私は軍歌を覚えた。

1945年(昭和20年)終戦。焼野原になった日本の大地で大人たちは頑張った。
1956年(昭和31年)。「もはや戦後ではない」と年次経済報告が出される。その5年後に私は生まれた。
日本が高度成長を迎え、前に前に向いていた時代だ。しかし、ただ開けた田んぼのあぜ道の脇で、お爺ちゃんは一人軍歌を歌っていた。社会の風は大きく世界に向かっているのに心の中の風は、その場でぐるぐる渦を巻いていたのかもしれない。そんな心も知らず、お爺ちゃんは私に微笑みながら共に軍歌を歌ってくれた。



帰郷した折、祖母の部屋の仏壇の脇には、軍服姿の額がいくつも置いてあった。祖母の膝枕でコクリコクリする私に祖母は「お爺ちゃんだよ」と指を指す。その時祖母はどんな辛い顔をしていたのだろうか?今となっては知る術は無い。内輪からそよぐ風が気持ち良くて私は目を閉じて眠ってしまった。

歳を重ね、ふとした瞬間目を閉じるとその祖母の想い出が蘇る。今まで朧氣で見えなかった顔が、最近はっきり見えるようになった。
祖母のその顔は、優しさに溢れた笑顔だった。

心に戦争の影を持ちながらお爺ちゃんや祖母は、笑顔で私の成長を紡いでくれた気がする。
そんなお爺ちゃんや祖母が生きた日本を、私は愛さずにはいられない。